著作・発行物の紹介、教学に関する論文や裁判履歴・記録など

考究〈1〉
日蓮大聖人は何を期して身延から出られたのか
本当に“ひたちのゆ”での湯治が最終目的だったのか

鎌倉より身延へ

日蓮大聖人が佐渡に流罪となり、塚原の三昧堂に入られたのは、文永8年11月1日のことだった。その日蓮大聖人が佐渡流罪を赦免されたのは、文永11年のことであった。赦免を知らせる船は、3月8日に佐渡に着いた。その後、鎌倉に上り、4月8日には平左衛門尉らと直々に会い、国家諫暁をなした。

しかしながら平左衛門尉らが帰伏するはずもなく、日蓮大聖人はのちの布教拠点となる身延に向かわれた。その様子は、文永11年5月17日付の「富木殿御書」に示されている。

十二日 さかわ 酒輪 十三日 たけ した 十四日 くるま がへし 十五日 ををみや 大宮 十六日 なんぶ 南部 、十七日このところ・いまださだまらずといえども、 たいし 大旨 はこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ、結句は一人に りて日本国に 流浪 るろう すべき にて候

【現代語訳】十二日に酒輪(酒匂)、十三日に竹之下、十四日に車返、十五日に大宮、十六日に南部、十七日にはこの場所に着きました。まだ決めたわけではありませんが、この身延の山中はおおむね心にかなっているので、しばらくの間はここ居ることになろうと思います。しかし結局は一人となって日本国を流浪する身なのです。

(富木殿御書 P964)

文永11年6月17日に波木井実長の所領である身延の山に入られた。

しかしながら、身延の沢は冷気が谷川沿いを流れ下って来るため、日蓮大聖人の体調はおしなべて悪かった。

しかし弘安元年6月に四条金吾が身延の日蓮大聖人を訪ねたときには、大変に楽しく感じられたようで、のちに四条金吾に宛て、以下のような思いを伝えられている。そしてこの時点での病状は四条金吾の処方で「百分の一」になったと率直に伝えられている。

はた 又日蓮 下痢 くだりはら 去年 こぞ 十二月卅日事起り今年六月三日四日日日に をまし月月に倍増す定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより 已来 このかた 日日月月に減じて今百分の一となれり、しらず教主釈尊の入りかわり・まいらせて日蓮をたすけ給うか、地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるかと疑い候なり

【現代語訳】日蓮の下痢は去年十二月三十日に始まり、今年六月三日四日あたりから日日にひどさが度を増して、月月に倍増しています。定まった死期が近いのかと考えていたところ、あなたが処方してくださった良薬を服してからは、日日月月に病状のひどさが減じて、今では百分の一となりました。あなたがどういうご縁の方かはわかりませんが、教主釈尊があなたの身に入りかわり日蓮を助けてくださったのでしょうか。それとも地涌の菩薩が妙法蓮華経の良薬を授けてくださったのかと不思議に思っているのです。

(中務左衛門尉殿御返事 P1179)

上記の文が日蓮大聖人より四条金吾に送られた同日、兵衛志(池上宗長)宛に出された消息がある。

みそをけ ひとつ 給び おわ んぬ、 はらのけ 下痢 は左衛門どのの御薬に なを りて候、又この みそ 味噌 なめ ていよいよここちなをり候ぬ、あはれ・あはれ・今年御つつがなき事をこそ法華経に申し上げまいらせ候へ、恐恐謹言。 六月廿六日 日蓮花押 兵衛志殿御返事

【現代語訳】味噌の桶を一つ頂戴いたしました。お腹の病気(はらのけ)は四条金吾殿の御薬で治りました。また、この味噌をなめて、いよいよ治ったような心地がいたします。まことに素晴らしいことです。あなたが今年、つつがなくいらっしゃいますことを法華経に申し上げて祈っています。

(兵衛志殿御返事 P1097)

この文によれば四条金吾の献上した薬によって病状が好転したことがわかる。

釈迦仏の貴辺の身に入る

日蓮大聖人は弘安元年10月に四条金吾に書状を書かれている。それを見れば日蓮大聖人に四条金吾が「御薬」「小袖」をお送りし、ほかにもさまざまな薬草などを用いての治療の仕方を伝えたことがわかる。

而るに日蓮は他人にことなる上・山林の すみか ・就中今年は 疫癘飢渇 えきれいけかち に春夏は 過越 すご し秋冬は又前にも過ぎたり、又身に当りて所労大事になりて候つるをかたがたの御薬と申し小袖・彼のしなじなの御治法にやうやう しる し候て今所労 平愈 へいゆ し本よりも・いさぎよくなりて候(中略)法華経は毒変じて薬となると見えて候、日蓮不肖の身に法華経を弘めんとし候へば天魔競ひて食をうばはんとするかと思いて歎かず候いつるに今度の命たすかり候は ひとえ に釈迦仏の貴辺の身に入り替らせ給いて御たすけ候か

【現代語訳】しかるに日蓮は他の人とは健康状態が異なり、さらには山林に住んでいます。なかでも今年は春から夏にかけて疫病や飢饉や旱魃が襲い、秋となり冬となって、より激しくなるばかりです。また、それらが私の身には悪くあたって病気が重くなっていたところ、皆さんが薬や小袖などをくださり、いろいろな治療法をためしてみて様々な結果がみられ、今では病気も平癒し、前よりもさっぱりと気持ちが良くなりました。(中略)法華経では、毒は変じて薬となる、と説かれています。日蓮は不肖の身ではありますが法華経を弘めようとしていますから、天魔が競って食を奪おうとしているのか、と思って歎くことなく過ごしていましたところ、このたび命が助かったことは、ひとえに釈迦仏があなたの身に入り替って助けてくださったのでありましょうか。

(四条金吾殿御返事 P1185)

日蓮大聖人においても、法華経を弘めようとすれば、天魔は競って食をうばわんとする。法華経を弘めようとすれば魔が競いおこる。それは冷厳なる事実である。

二人の二つの小袖

上記の四条金吾宛の文が書かれた1ヶ月後の弘安元年11月に認められた兵衛志宛の御状にも、日蓮大聖人は自らの病状について記されている。

去年 こぞ の十二月の卅日より・ はらのけ 下痢 の候しが春夏やむことなし、 あき すぎて十月のころ大事になりて候しが・すこして平愈つかまつりて候へども・ややも・すれば をこ り候に、兄弟二人のふたつの小袖・ わた 綿 四十両をきて候が、 なつ からびら 帷子 のやうにかろく候ぞ・まして・わたうすく・ただ ぬのもの 布物 ばかりのもの・をもひやらせ給へ、此の ふたつ のこそでなくば今年は こごへ に候なん

【現代語訳】去年の十二月三十日より下痢が始まり、春になっても夏になっても治りませんでした。秋が過ぎて十月になるとさらにひどい状態になり、少したって平愈したのですが、ややもすれば再び起こるのです。そんなところにあなたたち兄弟二人が送ってくれた二つの小袖、綿が四十両(1両=37グラム)も入ったものを着てみたら、夏のかたびらのように軽いのです。それに加えて、綿が薄くて布だけのようなものを着ていたことを思いやって下さったのです。この二つの小袖がなかったら、今年は凍え死んでしまったことでしょう。

(兵衛志殿御返事 P1099)

日蓮大聖人が池上兄弟の弟に礼状を送られたもの。御供養に対して丁重な御礼が述べられていて驚くばかりである。

今月十四日の 御札 ぎょさつ 同じき十七日到来、又 ぬる後の七月十五日の御消息同じき 二十比 はつかごろ 到来せり、其の外度度の貴札を賜うと雖も老病 るの上又 不食気 ふしょくげ に候間未だ返報を奉らず候条其の恐れ少からず候

【現代語訳】今月十四日の御手紙が同じく十七日に到来しました。また去る閏七月十五日の御手紙が同じく七月二十日ころに到来しています。その他にもたびたびのお手紙を頂いているにもかかわらず、老いで弱っているのに加えて食べることができない病状にあり、未だにお返事をさしあげておりませんこと、恐れ多く思っております。

(富城入道殿御返事 P993)

富木常忍に対する返状である。池上宗長に対する返状と同様に、大変に丁重である。

弘安4年5月、日蓮大聖人は池上兄弟に宛てて書状を書かれている。

此の法門申し候事すでに廿九年なり、日日の論義・月月の難・両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし故にや此の七八年間が間・年年に衰病をこり候いつれどもなのめにて候いつるが、今年は正月より其の気分出来して既に一期をわりになりぬべし、其の上 よわい 既に六十にみちぬ、たとひ十に一・今年はすぎ候とも一二をばいかでか・すぎ候べき

【現代語訳】この法門を言葉に出して弘め始めてすでに二十九年となります。日々の論議、月々に受ける難、伊豆と佐渡への二度の流罪で身も疲れ、心も痛んだせいでありましょうか、この七、八年の間、年年に衰弱する病となりましたが、それほどの大事ではなかったのです。ところが今年は、正月から体が衰弱してきて、もうすでに一生が終わるようです。その上、年齢もすでに六十歳に満ちました。たとえ十のうち一つ今年を過ごせたとしても、あと一、二年をどうして過ごすことができましょう。

(八幡宮造営事 P1105)

日蓮大聖人は法華経勧持品に示されたとおり、不惜身命の戦いをされてきた。それはひとえに日本国の衆生の幸せのためであった。

一つの涙

日蓮大聖人は弘安4年12月8日に上野殿母御前宛の書状を書かれている。この書を読めば、日蓮大聖人の病の程を窺い知ることができる。

さては ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候いて今年十二月八日にいたるまで此の山・出ずる事一歩も候はずただし八年が間やせ やまい と申し とし と申し とし どし に身ゆわく・心 をぼれ 候いつるほどに、今年は春より此のやまい・をこりて秋すぎ・冬にいたるまで日日にをとろへ・夜夜にまさり候いつるが・この十余日はすでに食も・ ほと をととどまりて候上・ ゆき はかさなり・ かん はせめ候、身のひゆる事石のごとし・胸のつめたき事氷のごとし、しかるに・この さけ はた たかに・さしわかして、かつかうを・はたと・くい切りて一度のみて候へば・火を胸に・たくがごとし、 に入るに たり、 あせ に・ あか あらい・しづくに足をすすぐ、此の御志は・いかんがせんと・うれしくをもひ候ところに・両眼より・ひとつのなんだを・うかべて候

【現代語訳】さて去る文永十一年六月十七日この身延山に入って今年の十二月八日にいたるまで、この山を出ることは一歩たりともありませんでした。ただしこの八年間、「やせやまい」もそうですが、年齢も重なり、年年に身が弱くなり心が弱くなってきますと、今年は春よりこの病が始まって、秋がすぎ冬に至るまで日日に衰え、夜ごとに病状がひどくなってきました。そこにこの十何日かは、すでに食もほとんど取っておらず、その上、雪が積もり重なり、寒さに責められています。身が冷えることは石のようであり、胸が冷たいことは氷のようです。 ところがこの頂いたお酒を温かに沸かして、かつかう(胃腸に効く薬草)を一気に食い切って、一度に飲んでみましたら、火を胸に焚いたように暖かいのです。湯に入ったようなのです。汗で垢を洗い、その汗のしづくで足をすすぐことができました。あなたのこの御志にどうお応えすればよいのだろうかと、うれしく思っていましたところ、両眼からひとつの涙がこみあげてきました。

(上野殿母御前御返事 P1583)

日蓮大聖人が身延に入られたのは文永11年6月17日であった。以降、日蓮大聖人は「やせやまい」あるいは「とし」からくる健康不良に悩まされていた。

この後、日蓮大聖人ご自身が自らの病状について書状に記されたのは、確認できる範囲では弘安5年3月の書状である。

日蓮大聖人は自らの病状について、南条時光に書状をもって以下のように伝えられている。身延を下山されるほぼ半年前の書状である。

そもそも 三月一日より四日にいたるまでの御 あそび に心なぐさみて・ やせ やまい もなをり・虎 とる ばかりをぼへ候上・此の御わかめ給びて師子に のり ぬべくをぼへ候

【現代語訳】三月一日より四日にいたるまで、あなたが身延に来てくださって心が慰められました。やせやまいも治り、虎をつかまえるような強い気持ちです。その上、このわかめを頂きましたら、師子に乗るような気持ちなのです。

(筵三枚御書 P1587)

この書状を見る限り日蓮大聖人の体調は、これまでになく好転していると思える。

身延の山より降りる

日蓮大聖人は、弘安5年9月に身延の山を下りられた。表立っての目的は「ひたちのゆ」に行き、湯治をすることにあった。しかしながら、一行は「ひたちのゆ」に直接、向かうことなく、池上邸(大田区)に入った。もし日蓮大聖人が「ひたちのゆ」に直接、行くことを目標にして身延の山から出られたとすれば、池上邸に寄ることは、どう考えても遠回りをしているとしか思えない。さらに日蓮大聖人の病は、「ひたちのゆ」に直接、向かうには重すぎたとも思われる。

参考地図:身延、池上、常陸の湯
■表立っての目的地である「ひたちのゆ」であるが、いまだその場所を特定されていない。ただ「ひたちのゆ」の有力候補地としては2箇所を数える。地図上に、「ひたちのゆ」が所在したと思われる2つの箇所を示した。①ひとつ目は福島県のいわき市である。②ふたつ目は茨城県の水戸市である。しかしながら、いずれが「ひたちのゆ」であるとの確証はない。
■なお地図上には身延を出られた日蓮大聖人の行動の軌跡を記した。参考にしていただきたい。身延入山時は、富士川沿いを遡行した。身延下山時は、富士山の北側を回り池上に向かった。酒匂川沿いを南下したという伝承もあるが、確かではない。

日蓮大聖人は仏の境界として、過去のみならず未来をも知るものであると述べられている。

仏のいみじきと申すは過去を かんが へ未来をしり、三世を しろ しめすに過ぎて候御智慧はなし、 たと い仏にあらねども竜樹・天親・天台・伝教なんど申せし聖人・賢人等は仏程こそ・なかりしかども・三世の事を ほぼ しろ しめされて候しかば名をも未来まで流されて候き

【現代語訳】仏の尊さと申しますのは、過去を勘え未来を知り、三世を知っておられるからで、これ以上の智慧はありません。たとえ仏ではないとしても、竜樹・天親・天台・伝教などという聖人や賢人たちは、仏ほどではないとしても三世のことをあらあら知っておられたので、その名が未来まで伝えられたのです。

(蒙古使御書 P1473)

聖人は 未萠 みぼう を知ると申して三世の中に未来の事を知るを・まことの聖人とは申すなり

【現代語訳】聖人は未だ萌え出ていない未来を知っている、と言って、三世の中に未来のことを知っているのが真の聖人だというのです。

(三沢抄 P1488)

聖人は、過去そして未来を具体的に知ることができる。日蓮大聖人は、身延より出られ池上に向かわれた時、自らの身に先々どのようなことが起きるかを明確に予見されていた。「ひたちのゆ」での湯治を目指して出発したのに、その旅の途中で体調不良のため湯治の計画は崩れ、予期もしない死が訪れたと考えるべきではない。

日蓮大聖人は池上邸に、弘安5年9月18日に着いた。到着の翌日、日蓮大聖人は身延において9年にも及びお世話になった波木井実長に、「御報」という便りを出している。それを代筆したのは日興上人である。

波木井に丁重な御礼

以下に波木井宛の「御報」の全文を箇条書きで紹介する。

「御報」の全文は、以下の通り。

波木井殿御報 
弘安五年九月 
六十一歳御作
かしこ み申し候、 みち ほど べち 事候はで・ いけがみ 池上 まで きて候

【現代語訳】謹んで申し上げます。道中特別なことはありませんでした。池上まで到着しました。

②みちの間・山と申し かわ と申しそこばく大事にて候いけるを・ きうだち 公達 護せられまいらせ候いて難もなくこれまで・つきて候事をそれ入り候ながら悦び存じ候

【現代語訳】道中、山も川も大変でしたが、あなたにつけていただいた公達に守護していただき、何事もなく、ここまで着くことができました。そのことを感謝し悦んでいます。

③さては・やがて かへ まい り候はんずる道にて候へども所 らう にて候へば不 ぢやう なる事も候はんずらん。

【現代語訳】さて、いつか身延へ帰る道中ではありますが、病気の身であるので、不測の事態もあるかもしれません。

④さりながらも日本国に そこばく 衆多 もてあつかうて候 を九年まで御 きえ 帰依 候いぬる御心ざし申すばかりなく候へばいづくにて死に候とも はか をば みのぶ 身延 さわ にせさせ候べく候。

【現代語訳】とはいえ、日本国においてはひどい扱いを受ける私の身を、9年もご帰依して下さった志がすばらしいことはいうまでもありません。ですからどこで死のうとも私の墓は身延の沢に建立させてください。

⑤又 くり かげ 鹿毛 の御馬はあまりをもしろくをぼへ候程に・いつまでも うし なふまじく候、 ひたち 常陸 へひかせ候はんと思い候がもし人にもぞ・とられ候はん、又 そのほか 其外 いたはしく・をぼへば よりかへり候はんほど・ かづさ 上総 もばら 藻原 殿のもとに・あづけをきたてまつるべく候に・しらぬ とねり 舎人 けて候てはをぼつかなくをぼへ候、まかり かへ り候はんまで此のとねりをつけをき候はんとぞんじ候、そのやうを御 ぞんぢ 存知 のために申し候、恐恐謹言。

【現代語訳】また付けていただいた栗鹿毛の馬は、あまりにも興味深く思っていますので、いつまでも失いたくないと思っています。ひたちのゆまで引いて行こうと思っていましたが、もし人に盗られるようなことがあったり、あるいはその他、疲れさせてしまうのではないかと思うので、湯より帰るまでは、上総の藻原殿のところに預けさせていただこうと思うのですが、知らない舎人をつけては心配でもあります。湯へ行って帰って来るまでこの舎人をつけておこうと思っています。そのことをお伝えしたくご報告申し上げます。

⑥九月十九日 日蓮
進上 波木井殿 御報
らう のあひだ はん ぎやう をくはへず候事恐れ入り候。

【現代語訳】所労(病気)のため、判形を加えなかったこと、誠に恐れ入ります。

文面に浮かび出る病

日蓮大聖人が池上邸に入られたのは9月18日。この「御報」は日蓮大聖人の指図に基づき翌19日に日興上人が代筆していることは、先述した。

日蓮大聖人が身延の沢で波木井の世話になったのは、9年間。日蓮大聖人はその恩に対し、この「御報」の中で真心をもって御礼を言われている。また再び身延に戻るとも言われ、馬を委ねる先まで配慮し、伝えられている。少しでも波木井を安心させたいと思われてのことだろう。

この「御報」に書かれた内容で、日蓮大聖人の体調に関わる深刻な表現がある。その文言をここで再び確認しておきたい。なお、便宜を図るため、引用した箇所のもともとの番号を付した。

③「所らうのみにて候へば不ぢやうなる事も候はんずらん」

④「いづくにて死に候ともはかをばみのぶさわにせさせ候べく候」

⑥「所らうのあひだはんぎやうをくはへず候事恐れ入り候」

この「御報」の文を見れば、日蓮大聖人が「ひたちのゆ」を訪れるだけの体力がないことは、容易に推察できる。日蓮大聖人は、亡くなられる1ヶ月前の時点で、自らの死を予見し、お世話になった波木井に衷心よりお礼を述べたのである。そして墓も身延の沢に建立して欲しいと記されている。墓が身延に建立されなければ、不便な身延を訪う弟子檀那もいなくなることは必定である。

ちなみに日蓮大聖人は弘安5年10月13日の辰の刻(午前7時〜9時)に池上邸で亡くなられた。そのために葬儀は池上邸で行なわれ、多くの弟子も池上邸に集まった。日蓮大聖人を池上邸で荼毘に付したのは、10月15日の子の刻(午後11時〜午前1時)のことであった。

そこで葬送の儀が執り行われたが、日興上人が記した「宗祖御遷化記録」には波木井一族の名を認めることはできない。御焼骨が池上より身延に帰山したのは10月25日のことであった。

日蓮大聖人は10月13日に亡くなられたが、その5日前の10月8日に日蓮大聖人が定められた六老僧に対する任命書を、日興上人が代筆した。先の波木井への「御報」の代筆、さらに六老僧への任命書の代筆、この作法のありようからして、次の一門の中核は日興上人であると思えるが、その後、身延の日蓮大聖人の墓を守った日興上人と5人との間に破局が生ずる。原因は五老僧が墓輪番の役務を決まったとおりにしなかったことによる。あろうことか日昭と日朗は無断で、それぞれ日蓮大聖人が所持されていた「註法華経」「釈迦立像」を持ち出した。

さらに後には波木井が謗法を行なった。しかし民部日向は波木井の謗法を咎めるわけでもなかった。そのことによって日蓮大聖人の教団は、分裂していくこととなる。

仏は「 過未 かみ 」を知る

仏はみずからが生きてきた過去世もわかれば、今から生きていく未来世もわかる。

法華経の 迹門 しゃくもん は過去の三千 塵点劫 じんてんこう 演説 えんぜつ す一代 超過 ちょうか 是なり、本門は五百 塵点劫 じんてんこう ・過去 遠遠劫 おんのんごう をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに くわし 過未 かみ を知るは聖人の もと なり、 教主釈尊 きょうしゅしゃくそん 既に近くは去つて後三月の涅槃之を知り遠くは後五百歳・ 広宣流布 こうせんるふ 疑い無き者か、若し しか れば近きを以て遠きを すい し現を以て当を知る如是相乃至本末究竟等是なり

【現代語訳】法華経の迹門では、釈尊が三千塵点劫の昔に成道したことが説かれています。これは釈尊の一代を超過した法門です。さらに法華経本門では、五百塵点劫という過去遠遠劫の成道を明かし、また未来無数劫の未来の事までも宣べられているのです。 これらのことから考えてみますと、過去と未来を詳しく知ることこそが聖人の本なのです。教主釈尊は、近くは三か月後の自身の入滅を知り、遠くは釈尊滅後末法の始めの五百年に法華経が広宣流布することを明言されましたが、これは必ずそうなるでありましょう。もしそうであるならば、近きをもって遠きを推量し、現在をもって未来を知るのです。法華経方便品の「如是相乃至本末究竟等」とは、このことです。

(聖人知三世事 P974)

池田大作創価学会第三代会長が入会したのは、昭和22年8月24日(19歳)のことであった。創価学会は、池田三代会長が入会して戸田城聖創価学会第二代会長に師事して以来、躍進する。

その典型的な事例として看過できないのは、昭和27年2月の蒲田支部の戦いである。それまでの創価学会においては、1支部100世帯の弘教をするのが精一杯であった。ところが蒲田支部に若干24歳の池田大作支部幹事が投入されたことによって、これまで不可能と思われていた1支部あたり1ヶ月に200世帯を超える折伏を達成した。この蒲田支部の記念すべき折伏戦は、他の支部に大きな刺激を与え、戸田会長の折伏の目標であった75万世帯達成の礎となった。

日蓮大聖人が滅したこの寂光土は、今日においても仏意仏勅の教団の要石となっている。

最蓮房と阿仏房カバー

最蓮房と阿仏房

--虚飾を剝ぎ真実に迫る--

最蓮房と阿仏房カバー

日蓮大聖人と最蓮房

--師弟不二の契約--