著作・発行物の紹介、教学に関する論文や裁判履歴・記録など

山崎正友がその著書において、北林芳典が日本共産党委員長・宮本顕治邸電話盗聴事件に関与したと記し名誉棄損を行なったので、損害賠償を求め裁判を起こし、勝訴した。
本件訴訟にいたる経過を見れば山崎正友の悪質さがよくわかる。
同事件に関与したかどうかについては、平成15年11月11日付で北林芳典が提訴し山崎正友が被告となって東京地裁において争いがなされていた。
その最中、またも山崎正友は同事件に北林芳典が関与したと記述した本を(株)日新報道より出版したのである。すぐさま北林芳典は山崎正友に対し名誉棄損を請求原因として損害賠償訴訟を東京地裁に起こした。
このため北林芳典が、同事件へ関与したかどうかについての裁判が東京地裁において2件並行して行なわれるという異常事態となった。
北林芳典は先の裁判、この裁判ともに勝訴し、宮本邸電話盗聴事件に関与していないことが明確となった。

平成17年
4月11日
提訴
平成19年
9月4日
証人出廷 北林芳典証言
平成20年
4月16日
東京地裁 原告・北林芳典 勝訴
平成20年
12月25日
東京高裁 原告・北林芳典 勝訴確定
平成20年
12月29日
山﨑正友死亡により原告・北林芳典 勝訴確定

(株)日新報道は昭和44年に当時、明治大学教授であった藤原弘達に「創価学会を斬る」という本を書かせ発行した出版社である。「創価学会を斬る」の本の内容をまったく吟味をせずいまだもって「言論問題」などと喧伝しているが、同書の内容は低俗にして悪質極まるものであり、創価学会に対する誹謗中傷だけを目的にしたものである。社会的存在として創価学会を真摯に評論するなどという視点はまったく見受けられない。

藤原は同書のなかで次のように書いている。

「創価学会のやり方はまさにこのヒトラー・ナチスの手ぐちときわめて類似しているといわなければならないであろう」

「ひところ、脱会した会員に対するリンチ事件があったりした」

「ヒトラーのいった有名な言葉に『大衆はバカなもので、天国を地獄だと思わせることも、地獄を天国だと思わせることもできる。ただそう思わせるように自分自身が信念をもって、何度も何度も同じことをくり返すことである。』というのがあるが、創価学会のやり方はそういうやり方を、まさに地でゆくものといっても過言でない」

「創価学会に集っている大多数の人間の知能レベルがどのぐらいであるかということについては、いろいろ議論のあるところだが……(以下、略)」

「つまり、だんだんと国民大衆がバカになるように誘導していく罪と表現してもよいであろう」

昭和45年は1970年にあたり安保が自動延長されるかどうかの重要な政治的な境目の年であった。ところが安保に反対する日本共産党などは70年安保を粉砕するだけの運動的うねりを作り出せず、そのままでは70年安保について敗北的総括をせざるをえない状況にあった。とはいえ当時の政権を握っていた自民党は、70年安保自動延長に安閑とできる状況でもなかった。時の総理である佐藤栄作の兄・岸信介は60年安保で退陣を余儀なくされており、佐藤は70年安保を無事に乗り切る方策に腐心していた。このような状況下において(株)日新報道の「創価学会を斬る」の発刊にあたり、創価学会より圧力がかかったかどうかが、政治的問題となってきた。この問題は日本共産党などの反体制派、また安保推進の体制側にとって願ってもないことであった。それらのものにとって「創価学会を斬る」の本の出版意図やその内容が極めて悪質であろうとも、そのようなことはどうでもよいことであった。70年安保をめぐる体制、反体制派という両派の思惑が、創価学会を政治問題の渦中に放り込むことを欲したのである。

(株)日新報道は選挙のあるごとにといっていいほどに反創価学会、あるいは反公明党の企画本を出している。その(株)日新報道の出版意図はこの昭和44年の「創価学会を斬る」を出版したときから変わっていない。「創価学会を斬る」の出版は同年12月27日に行なわれた総選挙を目当てにしたものだった。(株)日新報道の出版の有り様は、反創価学会勢力などに出版をした本のまとめ買いをしてもらうことを事前に約束した上で出版することも多々あるといったものだ。

(株)日新報道が山崎正友著「再び、盗聴教団の解明」を出版したのは平成17年4月であった。この書においても山崎は私が日本共産党委員長宮本邸電話盗聴事件に関与したと記述していた。「関与」の内容は昭和55年に操作情報を流した時とは、大きく変わっていた。それまでの判決で矛盾をつかれた部分を改竄補強し、あらたにまた「記憶が蘇った」とし私の関与事実をでっち上げた。

この時の裁判のやり取りであきれたのは「私がこう書けば北林は必ず名誉毀損で訴えてくると思っていました」とシャーシャーといったことである。もはや裁判所も間に入れないような確信犯的悪党である。裁判という消耗戦に私を引きずり込み心身ともに痛めつけてやろうという計略に基づき虚偽の内容を平気で書き連ねるのである。

ところが連続する裁判で心身ともに耗弱してしまったのは山崎であった。平成20年12月25日、東京高裁で私の勝訴が確定したが、その4日後の29日、山崎は死んだ。